KY(空気読めない)

新聞のコラムで読んだが、今の若い人たちはKYを気にするのだそうだ。自己中でありながら同時に極めてローカルな集団から取り残されるのを恐れる傾向にあるのだとか。KYにならないよう、常に場の雰囲気に神経を配りながら行動しているらしい。
その記事を読んで思ったのだが、どうも世間で言われているところのKYに気をつけるというのが、場の空気を読むだけでなく、その流れに沿った行動をするという意味で使われているのが気になる。社会生活をする上では確かに空気を読んで行動するのは大切だ。しかし、あくまで空気は読んで考えて行動するべきなのであって、決して場の雰囲気に呑まれたり流されて行動するということではないはずだ。実際、少年犯罪等で、暴行がエスカレートして悲劇を引き起こすのはそういう行動が原因なのではないか。空気を読み、それに従うのでは主体性が無い。その場の空気を自分に都合のいい、あるいは目的にかなった方向へ雰囲気を持っていくように行動するのが、主体性のある大人の行動ではないか?