祖母の時と違い、勝手が分かってきたのと、通夜までに時間的余裕があったのとで、今回はそれほど慌てることなく落ち着いて準備をができた。私は4/4は新入社員研修の講師をしなければならないし、親父たちは葬儀後東京に戻るというし、兄貴は納骨まで見届けるということで、車3台でバラバラに行くこととなった。現地のホテルで集合し、荷物を部屋に預けて喪服に着替え、親父の実家へ向かった。
前回神妙そうにしていた長男坊は、葬式で他の子に会えることを楽しみにしてしまい、はしゃいでいた。どうも前回に比べて緊張感が足らない。ホテルに到着し、喪服に着替え、停める場所が少ないということでウチのノアに兄貴を含め大人5人子供2人を乗せて実家へ。関係ないけど大きい車を買っておいて良かった。まさかこんなかたちで大活躍になるとは。
実家へ着くとまだ他の親戚は来ておらず、叔父さんも普段着のままだった。早速、祖父の遺体が寝かされている寝室に行った。顔に被せられた白い布をとると、祖父の窶れ果てた顔が現れた。目は深く落ち窪み、頬の肉もげっそりと落ちてしまい、骨の輪郭が透かして見えるのではないかと思うほどのやせ細りようだった。昨年の8月に脳腫瘍の手術をしてもうすぐ退院できるって時に見舞いに行った写真では、まだ痩せているとはいえそんなガリガリにはなっていなかったのだが。祖母は生前の姿そのままの遺体だったのでショックはまだ小さかったが、祖父のこれは、あまりにも、やり切れない。病院側のミス(?)で院内感染を起こし、家族の了解も得ずに勝手に延命処置や強硬なリハビリを繰り返し、結果として最後まで苦しんで逝ったそうだ。共産党系の病院で、前回見舞いに行ったときも妙なイデオロギーを唱えた張り紙が院内のそこかしこに貼り出されていた。言論が自由な国だから、イデオロギー云々は別にいい。でもそのイデオロギーとやらで、関わった患者と家族を不幸にするのは許せない。割とこういうことにはドライな母も、祖父の境遇を思い起こすと涙が出ると言っていた。本当に、医者と病院はよく選ばないといけない。
祖父の顔を見ながら、親父がとつとつと祖父の話をしてくれた。今まで何度も聞いてはいたが、まとめて聞いたのは初めてだ。祖父は小学校を卒業するとすぐに大工の見習いになり、ある程度技術を身につけたところで上京して家具屋の工場に入った。そこで人が1日にやっと2棹箪笥を作る間に3棹作るほどに腕を上げ、祖母とも結婚して頑張ってきたそうだが、そこで日本は大戦に入り、召集令状が来て1回目は東南アジアへ、2回目は中国へ行った。中国には終戦までいたが、終戦直後に軍部がさっさと引上げてしまったため、祖父は中国に取り残されてしまった。この時、一番上の兄は軍部の司令部にいたのですぐ帰ってこれ、また三男も補給部隊で比較的早く帰ってこれたのだそうだ。最前線の一兵卒に過ぎなかった祖父は最前線に置き去りにされたのだ。そこから多くの旧日本兵はたちまち立場が逆転してしまい、中国人たちに暴行を受け、ある者は虐げられ、ある者は残った武器で強盗を働いた。なかにはリンチにあって殺された者もいた。そんな中、祖父は大工と木工の腕を生かし、筆談で会話しながら家具の修繕や家の修理をして金銭や食料を分けてもらい、半年後には日本に帰ってきた。この時、手に職をつけている者は世界中で通用すると確信したそうな。さて、日本へ帰ってきたはいいが、東京は空襲で焼け野原になっており、仕方なく故郷に帰るも、自分の居場所が無い。弟を頼って、家の一部に戸板で囲いをしてもらい、約3畳ほどのスペースに親子3人で暮らしていたそうだ。その時の辛いエピソードで、風呂桶が無いのでドラム缶に水を入れて沸かしたが、囲いも無く親子で入るのも忍びないので戸板を追加で持ち出して囲いをして入っていたら、入浴中にも関わらず、弟に「俺の戸板を勝手に使うな」と戸板を持っていかれ、裸の親子3人がドラム缶に浸かりながら呆然としてしまったということがあったそうだ。その時の悔しさ惨めさは今でも忘れられないと、親父は悔しい顔をしながらも懐かしそうに言った。それから、しばらくは家具の修繕で食っていたが、これだけでは家族は養えないと、少しずつ大きなものを修理するようになり、終いには大工として家そのものを建てることを生業にするようになったそうだ。その後はある程度店が大きくなったところで次男の叔父に引き継がせ、祖父は引退。叔父も頑張って建築会社を大きくしていって今に至るとのこと。戦争から戦後が一番、特に命からがら中国から撤退する時が特にきつかったそうだ。静かににこにこと笑っている好々爺で、昔の記憶でも大変温厚な人だったけど、大変な人生を歩んだ人だったんだなと改めて感心した。
親父と叔父が段取りについて打合せをしている時、1台の高級車が敷地内に入ってきて、1人の紳士が下りて来た。はじめただの運転手かと思ったが1人で来ていたのでどうも偉い人が自ら来たらしい。しかし誰なのか、その場にいた全員が分からない。とりあえず家に上げてお茶を出したが、その時名乗った名を聞いてびっくり。なんとマックジャパンの代表取締役社長だったのだ。親父の関係の人で、名前を聞いて大慌てで恐縮しながら挨拶していた。何でも、親父が千葉に借りた別荘の大家さんがこの人だったそうで、会うのは今回が初めてだったらしい。なんで大家さんが店子の親の葬式に顔を出して、それも自ら平日に運転して遠路はるばる東京から来てくれたのか不思議だったが、どうも親父の話しぶりからして、親父がこの数年間全国の会社の管理職相手に講演会をしてきた関係で出来た新しい人間関係の人だったらしい。たぶんこれからいろいろとお世話になるのだろう。しかし自らここまで足を運んでくれるとは。そんな人を来させてしまう親父も凄いが、やはりこういうことに自ら顔を出す社長さんも凄いと思った。偉い人は人脈で仕事をするというが、それを目の当たりにしたようだ。しかし、、、そういうのを見ると自分は小さいなぁ、、とちょっと凹んだ。社長さんは、しばらく親父たちと話をしていたが、香典と電信を置いてまた東京へ帰っていった。
それと入れ違いに、次第に親戚が集まり始めてきた。親父があいさつ文を書いたりするのに忙しそうだったので、兄貴と私と長男坊の3人で、祖父の遺体の傍らに座り、訪問者のお別れの挨拶に付き添った。皆、一様にその変わり果てた姿に絶句していた。特に、祖父の弟の落胆振りは見ていて辛かった。
親戚一同が揃ってからの流れは祖母の時と同じだった。祖父の身体がやけに小さく感じたのは、祖母が規格外に大きい人だったからか。今回も長男坊は積極的に手伝ってくれた。次男坊は、骸骨のように見える祖父が怖かったのか、今回は引っ込んでしまっていた。前回は段取りが分からなかったので時間の流れが遅く感じたが、今回は慣れたせいかあっさり終わったのように思う。坊様の読経後、2番目の従妹の次男坊が、何度も可愛らしい声で「終わったー?」と聞いたのに答え、坊様が「はい終わりましたよ」と言ったのが微笑ましかった。田舎の通夜・葬儀は、雰囲気が明るい気がする。
宴。今回は嫁もしっかり食べた。建築会社の職人さんたちも来ていて、冷をコップでカパカパ飲み、従妹達の婿3人衆が捕まって飲まされていた。相変わらず山菜料理が美味い。筍もちょうど旬なのかとても美味い。宴会自体は明るい雰囲気で進んでいった。こういう機会でしか親戚が集まれないからだからだと思うが、故人を偲びつつ皆明るく飲んでいた。
いい時間になり、親戚もほとんど帰ってしまい、残されたのは親父と叔父の関連の親族になったので、ここでまた仕切り直して飲んだ。叔父の娘婿3人衆はいずれもが気さくな人で、しかも皆私より若いのに随分しっかり地域社会の挨拶というものをこなしていた。やはり人間関係の濃いところで揉まれると鍛えられるのだろうか。ちょっと自分が恥ずかしくなった。
適当な時間で切り上げ、一路ホテルへ。無論、運転は酒を飲まなかった嫁。一風呂浴びて、即寝た。