ちょっと変わったスケジュールだった。いや変わっているのかどうかは、そもそも正式なのがあるかどうかも分からないので、何とも言えないが。通夜の後、告別式の前に出棺して火葬するのがこの地域の慣習とのこと。なかなか合理的である。というわけで、朝早くから集合であった。
今日は朝から雪である。ホテルのある飯田市はともかく、実家は山奥である。運転の困難さを騒々し、戦慄した。昨日の強風、今日の雪だ。朝はバイキングだったが味わう余裕もなく胃に詰め込んで、嫁と坊たちを残して出発。しかしチェックアウトに手間取ったり、忘れ物をしたり、スリップを警戒しての慎重な運転などが原因になって、朝七時集合のところへ二十分も遅刻してしまった。親父無しでは始められないので、皆さんをずいぶん待たせてしまったことになる。二日連続の遅刻は恥ずかしかった。
着いてすぐに式は始められた。焼香と読経を行い、出棺。釘打ちの儀では、業者があまり上手じゃなかったので、本職である叔父がすかさず指摘。全員が二回二ヶ所ずつ石で打ったあとの最後の打ち込みも、叔父は鮮やかに素早く打ち込んでしまった。
出棺は、祭壇へは頭から入ったので足から出しますと業者。結構あれやこれやと細かいが儀式とはこういうものだろう。男たちでわっせわっせと霊柩車へ運びこんだ。どうでもいいが、重い空気は全然無く、祭りのノリで儀式が進んでいくのがちょっとアレだった。
火葬場へ行く際、私は後でホテルまで嫁と坊たちを迎えに行く必要があったため、ノアでマイクロバスの後をつけて行った。火葬場へ着くと、最後の別れの焼香をし、祖母の死に顔をもう一度拝んで、見送った。焼き終わるのには1時間半かかるとのこと。ここで親父から頼まれてホテルへ向かった。実はどうしても断れない仕事のために、午後の告別式は参列しないとか。代理のつもりで参列してくれと言われてしまった、とほほ。ホテルで仕事の準備を整えた親父をもう一度火葬場へ。
骨を拾うのは2回目だ。昔、高校の同級生が事故で亡くなった時に、遺族に頼まれて骨を拾った。祖母の骨はカラカラに焼けてずいぶん小さくなっていた。徹底的に焼いて炭酸カルシウムだけになるとあんなにも小さくなるものなのか。
御骨拾いは2人1組で、一人が足のほうから拾い、もう一人が骨壷の上で箸を添えて中に納めた。それを一巡しただけなので、足の部分だけで終わってしまった。その後は業者が拾う骨の解説をしながら下から順に納めて行き、最後にお鉢の部分だけ喪主の叔父と親父の二人で拾って納めた。以前やったことがあるのは二人一組で鳥がえさを啄ばむがごとく、最後まで皆で拾ったので、宗派や地方によって違うのだなぁと感心した。
親父とお袋はマイクロバスに乗ってそのままセレモニーホールへ向かい、兄貴と私は嫁と坊たちと荷物を取りにホテルへ向かった。さっきもそうだったが、坊たちはDS三昧の時間を過していたようで、なかなか腰が上がらなかった。急ぎにも荷物を車に積み込み、一路セレモニーホールへ。到着後、すぐに親父からバスセンターまで送ってくれと言われ、また反対方向へ車を飛ばした。午前中運転しっぱなしだなぁと思っていたら親父がお足代と称して1枚くれた。
戻ってすぐに弁当をかっこみ、告別式の会場へ。次男坊は落ち着けないので嫁が張り付いて面倒をみることになった。私は長男と共に親族の席へ。告別式の間約1.5時間、弔問客が来るたびに立ち上がり頭を下げていたのだが、これが実にいい運動でへとへとになってしまった。長男はしんどそうにしていたが大人の儀式に参列したことが誇らしかったのか、頑張っておじぎをしていた。昨日もそうだったが、随分凛々しくなった。
引き続いて葬儀が始まった。臨済宗の葬式は初めてで、どんなふうにやるのか興味があったが、とにかく派手にドンチャンドンチャン鍾や木魚を鳴らしまくる騒々しい式だった。なんというか中華式かと思うほどのうるささだった。あとで知ったのだが、もともと土葬だった時代に葬儀の列と分かりやすくするために派手に打楽器を打ち鳴らしながら読経したとのこと。次男坊のことが心配だったが、案の定、騒音が苦手な彼は顔を真っ青にして式場を飛び出して行ったらしい。
式が終わり、最後に精進落とし。今回、私は親族側であり、弔問客をもてなさなければならないわけだったのだが、どうもみんな知らない人ばかりで、申し訳程度に挨拶しながら酒やお茶を注いで回ったものの、「誰だお前?」的な態度についつい萎縮してしまい、木偶のぼうぶりを発揮してしまった。こんな私に比べて従妹たち及び彼女の旦那さんたちは、彼らにとっては知っている人ばかりとはいえ、談笑しながら注いで回っており、とてもとても劣等感を感じてしまった。余談だけど、職責不相応な立食パーティーに招かれたりした時にも、私はいつも積極的に飛び込むことが出来ず、壁の花になってしまうことが多い。なんとかしたいなぁ。
1時間もして、弔問客が一団、また一団と祖母の遺影と御骨に挨拶をして帰って行き、雪の降りが激しくなったので私らも早めに退散させてもらうことになった。
帰りに祖父をほったらかしなのもアレだったので病院に立ち寄った。次男坊は行きたくないと言うので嫁と一緒に車に残ってもらった。祖父は酸素マスクをして寝ていたが、看護婦の説明で、昨晩から容態が悪化し、家族の承諾なしに足の付け根の大静脈からの点滴と酸素マスク着用をしたとのこと。それを家族に連絡して欲しいと言われた。今繋がるはずだから連絡して欲しいと言ったが、忙しいとかで任されてしまった。叔母に連絡したが、なんか?な病院の対応だ。後の話でこの病院自体共産党系の病院で、患者の命や事情よりも自分たちのイデオロギーを優先させるトンデモ病院だと聞いた。
お袋をバスセンターまで送り、長男の忘れ物をホテルまで取りに行き、運転は兄貴に任せて帰路に着いた。幸い、雪は愛知に入る頃には雨に代わった。夕飯は、精進落としで余った料理。田舎料理で美味しかった。
どたばたと濃い2日間だったが、大変良い社会勉強になった。